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1章 7

Author: 深田あり
last update Petsa ng paglalathala: 2026-06-19 20:40:28

 俺は一端土間を出て、外の空気を吸う。もう空は真っ暗で満天の星々がきらきらと輝いている。月は少し欠けているな。

 肌をえぐるような凍てつく寒さが俺の全身にまとわりつくが、不思議と不快ではなかった。冬の透徹した空気が俺の肺に入り込む度に心が洗われるよう。

 夕飯まで外で体操でもしようか。そう思って屈伸を始めた時、がちゃりと音を立て、七岸さんが出てきた。もう出来たのか? いや、手に何か持っている。円筒状の物体だ。

「あ、七岸さん。それは?」

「見てわかりませんか? 目が腐ってるんですか? クズ野菜などのゴミ出しです。これは裏に置いておけばいいのですか?」

 あ、それゴミ箱だったのか。俺は頷き、蔵の脇にあるゴミ置き場へと案内する。

「ああ、明日の朝捨ててきて貰うから、今日は裏にまとめておいてよ」

「わかりました……意外と量が多いですね」

 うんしょうんしょと声を出しながら一生懸命ゴミ箱を運ぶ七岸さん。なんかかわいい。

「使用人多いからね。食べ物はいいものを与えたいから割と金かかるんだ。だから賃金が安いのは勘弁して欲しい」

 出来ればもう少し賃金を上げてやりたいが、これでも精一杯なのだ。最近米が非常に高い。シベリア出兵から一気に高騰して全国各地で一揆が起こったのは記憶に新しいが、問題は一揆が沈静化しても結局米価は下がらなかったのだ。

 特にうちは亀ノ尾の一級品を使っていて、しかもおかわり自由にさせているのでここにかなり金がかかっている。藤高が安い愛国にしたらどうかと提案してきたこともあるが、それはダメだ。愛国なんて安い米を一生懸命働いてくれる彼女たちに食わせたくはない。

「仕方ありませんね。……あら?」

 七岸さんがゴミ箱をゴミ置き場に置きながら、家の外へと視線を移した。

 なんだろうと思って俺も外を覗き込む。するとそこには大通りのど真ん中を我が物で走る――牛車があった。

「げ、あ、あの牛車は……」

 牛車。言うまでもなく平安時代の乗り物である。鈍足な牛に籠を引かせる乗り物だ。大正明治はおろか江戸時代ですらそんなもの走っていない。言うまでもないことだ。

 でも走っている。牛車が走っている。そして俺は――あの牛車を知っていた。

 あれは『入地家』の牛車だ。

 七岸さんの目がぎょっと見開く。まるで出目金。

「今平安時代でしたっけ? なんであんなトンチキなものが」

「心の声もなしか……。いや、無理ないよな。えーと、あれは……」

 俺が答えようとするより先に牛車が停車し、一人の少女が籠から降り立った。

「いとオホホ!」

 彼女は入地鈴子。俺の――幼なじみである。

 腰まで届くさらさらの黒髪と、すっと通った目鼻立ちが印象的な、いわゆる美人さん。

 ただ問題は彼女の性格と格好にある。前者はいいとしても後者について語るなら彼女のいでたちは普通ではない。常識では考えられない服装をしている。俺は恐る恐る訪ねた。

「鈴子さん。もう夜だってのにどうしたんだい? 十二単なんか着ちゃって」

 そう、十二単なのである。鈴子さんは現在、十二単をまとっているのだ。

 こんな格好をする人間なんか、大正明治はおろか江戸時代にだっていやしない。当たり前である。敢えて言うことじゃない。

 七岸さんは呆然としながらぼそっとこぼす。

「平安時代からのタイム・トラベラーでしょうか」

「タイム・トラベラーなんて用語、よく知ってるね」

「黒岩涙香とかウェルズとか好きなもので」

「はいからさんだねえ」

 流石町娘というべきか。

 そんなことを考えていると、鈴子さんはずりずりと地面に十二単の衣を引きずりながら俺の傍まで歩み寄り、にこやかにこう言う。

「これからレストランで御夕食なのよ。やっぱりレストランは正装でなくちゃね!」

「それが正装なのは千年近く前の話だけどね。ついでに牛車も」

「この格好じゃ自転車に乗れなくて」

 当たり前じゃねえか。

 俺は肩をすくめ、呆れ混じりに訪ねる。

「自動車はどうしたの? 確かアメリカから取り寄せたって自慢してたじゃないか」

「乗り心地が悪くてダメよ、あんなの。やっぱり乗り物は牛車に限るわね!」

 牛車にはサスペンションもクッションもないわけだから、車より遙かに乗り心地が悪いと思うのだが。いや、車に乗ったこと一度しかないけどさ。車なんて持ってないし。

 と、ちょいちょいと七岸さんが俺の腰をつついてくる。

「な、なんですか、この人」

「ああ、彼女は入地鈴子さん。えーと……俺の……幼なじみ」

 すると鈴子さんはふぁさっと前髪を梳きながら流し目で俺を見る。

「もう幼なじみだなんて他人行儀な。こんなにも愛し合っているのに」

「愛し合ってはいない。てか婚約もしてないじゃないか」

 鈴子さんは俺に好意を持ってくれているようだが、俺は実を言うと友達としてはともかく、恋人としては認識していない。

 このズレがちょっと俺たちの関係を複雑にしている。

 七岸さんがじっと鈴子さんと、その後ろに停車している牛車を眺めながら、

「ところで、その気の狂った格好と常識をドブに捨てたような乗り物は?」

 毒舌混じりに質問した。心の声もなしだった。どうやら本音らしい。

 俺は頭をぼりぼり?きながら苦笑する。

「彼女は古いものが好きなんだ」

「…………」

「どうしたの?」

「頭オカしいんじゃないですか?」

「「うわキツ……」」

 俺だけでなく、鈴子さんまで漏らしてしまった。

 流石に言い過ぎだと思ったのか、七岸さんは慌てて両手で口を塞ぐ。

(あ、しまった! つい本音が! で、でも変な人だし……しょうがないよね?)

 と思いきや、心の声ですらフォローないのか。さもありなん。

 まあ十二単着て牛車に乗るような女の子、普通じゃないよな。

「ところで鈴子さん。その格好ってことは、まさかウグイスの糞で頭洗うのかい?」

「今時そんなことしないわ。ちゃんと石鹸使ってます」

「そういうところは最新なのか……」

 どういう基準だ。いや、俺だってウグイスの糞で髪を洗う女に近づきたくはないが。

「ところでそちらの子は? 見ない顔だけど」

 鈴子さんが不思議そうに目をぱちくりさせながら首を傾げた。

「ああ、今日から奉公に着て貰った七岸さつきさん」

「私、挨拶するんですか? こんな狂人と」

(七岸さつきです! よろしくお願いします!)

 七岸さんはそう言いつつ思いつつ、深々と頭を下げた。

 それを見て鈴子さんは笑い、後ろ髪をさらっと梳く。

「中々ユーモラスのある子ね。そういうの嫌いじゃなくてよ? 入地鈴子です」

「そう言えば入地って、まさか……」

 この名字に気づいたか、七岸さんが俺を見た。

「ああ、知ってるよね。彼女は首相である入地公爵の孫で、親族に枢密院議長がいて、内大臣がいて、宮内大臣がいて、貴族院議長がいて、衆議院議員がいて、大病院の院長がいて、新聞社の社主がいて、陸軍の参謀総長がいて、警視総監がいて、台湾総督府の提督がいて、南満州鉄道の重役がいて、帝大の学長がいて、明治神宮の宮司がいる」

「な、なんですかそれ……」

 七岸さんがあんぐりと口を開けた。無理もない。

 この入地鈴子という女の子は大日本帝国史上最大の縁故を有し、彼女が白と言えば烏だろうが靴墨だろうが全て白になると言われるほどの権力を持っている。

 だから牛車で道路を練り歩いても誰も咎められない。

 それは俺とて例外ではなく、幼なじみではあるが俺は彼女にキツく叱れない。

「入地公のお孫さんになんて口を利くんだ!」とあらゆる方面の名士から怒られるせいだ。

「人呼んで日本最大のおコネ持ち」

「なんというクソな家柄でしょう。自慢のつもりですか?」

 七岸さんが恨みがましくぼそっと呟くと、鈴子さんはいやいやと首を振る。

「別に自慢なんかしないわよ。卑屈にならないの。それはそうと、一緒にディナーでもいかが? なんならその子を招いてもよくてよ?」

「いや、遠慮させて貰うよ。もう夕飯の支度は始まっているからね」

「あらそう、ではごきげんよう」

 鈴子さんは軽く会釈すると牛車に乗り込み、ガラガラと木製の車輪を擦らせながら道路を我が物顔で進んでいった。ちなみに牛車なので非常に鈍足である。

 それを見送りながら、七岸さんが心の声でぼそっと。

(へ、変な人だったなあ。あまりお近づきになりたくない……)

「まあ、あの子はああいう子なんだ。でもいい子だよ」

「そうでしょうか? 私にはキ○ガイにしか見えませんでしたが」

 反論に困る。

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